理知的にアピール
ごまめの歯ぎしりとは「取るに足りない者が批判をしても何も変わらない(からヤメておけ)」という戒(いまし)めだった。ところがこれに後日談がついたようだ。すなわち理知があればそう思わないというものだ。それでこの理知は誰を指すべきだろうか?
⑴ヤメておけという理知‥これは理知と言える代物(しろもの)ではあるまい。なにせ犬猫ほどの能力があれば誰でも言える。あなたは犬猫の子分になりたいですか?そんなのイヤでしょ?人間の知恵が具わってれば幼児でも犬猫の子分は嫌でしょうね。
⑵そう思わない理知㋑‥取るに足りない者に理知が具(そな)わってるなんて思えないでしょう?だったらこの場合は「理知が具わったごまめ」だろうな。ごまめを取るに足りない者と決めつけるのも知恵を感じないけど‥これはもうチョイ考えてみたい。
⑶そう思わない理知㋺‥ごまめは取るに足りない者だと侮(あなど)っていたけれど、よくよく考えてみたら自分のほうが判断を誤まっていた(‥かも)と思い直すケースはどうなの?この場合なら庶民を己の同胞(どうほう)として敬い大事にしそうです。
山本宣治という人物は「(ごまめの歯ぎしりに触れて)軌道の繋ぎ目のネヂに触れゝば、よし‥‥理智を具へた人間ならやりおほせる‥といふ譬へ話」として述べているようだ。私の理解だと山宣は理知が具わる知識人であって非法活動をする人物とは思わない。
それはそれとして私であれば山宣を危険視しないが、その根拠をあなたはお分かりになりますか?私は共産主義者でなく山宣と思想は異なる。それなら山宣を危険視した思想と私の思想ではどこがどう異なるだろう?もしかして理知でなかろうか?
山宣を危険視した思想は山宣の思想を危険視したのでなかろうか?だから危険な思想の排除を狙ったのでなかろうか?危険思想の排除は現在に至るまでの過去の世界史に歴然でないか?それなら山宣は平和思想をどうアピールすれば良かったのか?
平和思想のアピール‥この目的でブログ『心の交差路』を私は開いているのです。
愛するために🎶
(私の私見として述べます) 恋はピンク色してるって言いたいけど‥いつだって辛くて苦しい現実が控(ひか)えている。だからって恋にほとほと愛想が尽きている私ではない。事実「可愛さ余って憎さ百倍」っていうのは私の心の実景なんです。そういうことなら恋は絶えず私の心を流れているってことであなたも同意なさるでしょう?笑
この恋する心が失われてしまったら(私は)どうなるだろう?想像するだけでも恐ろしい日々が控えていそう。恋をすれば辛く苦しく、恋をしない私は干からびたミイラ。干からびたミイラに動かされる心はどこかに有るとしてもそれはミイラには最早詮(せん)無くて、やがて風化して土塊(つちくれ)となるか、砂塵(さじん)に混ざるか‥
いやいや、「愛があれば大丈夫」と若気の至りは唱えるのかも。あなたならいかがでしょうか? 私は底辺の出生(でしょう)なれば恋に耐えて耐えて耐えぬいてどうにかここまで上ってきたのですけれど、天辺(てっぺん)近きの出生ほど落ちて落ちて落ちてきて立上がれないかも知れません。そうすると愛は路肩に咲く名もなき花かも。
花の名を確かめる間もなかった‥だけど太宰治はその花から愛の花「月見草」を咲かせたようにです。太宰の恋する想いは昇華(しょうか)して高く高く上っていって愛となって花開いた。そんなふうに私には想われるのです。大好きな子だからこそ愛せる母性なのだろうなあ。人を好きだからナザレのイエスは人を愛せたのだろうな。
いえいえ、これは飽(あ)くまでも私の私見ですから。只、人を好きという私の癖だけは永遠に失くしたくない。いやいや、もっともっと強力に癖づけていきたい。
コンセプト
今度の新しいカテゴリー名を「コンセプト」にしたが、どうやら多くの方にややこしく受取られている言葉のようだ。事業現場などでは構想とか基本概念と訳されているらしいが、これでますます分らなくなってたり‥。(''◇'')ゞ
コンセプトが人ごとに異なってたらそれがどこの現場でも意思統一を図れないよね?仮にもこのような状態で賞罰が決められたら現場は堪ったもんじゃない。そうでしょう?実際これが憤懣(ふんまん)の原因だったりする。
ここでは「コンセプト」を私の感覚で「一夜城」のようなものと言い換えておきたい。不夜城ではありませんから間違っても胸をときめかせないで下さい。笑 化城に似た感じはするけど寛(くつろ)ぐ場でもない一夜城。
コンセプトはテーマでなく目的でもなく通奏低音(つうそうていおん)のように初めから終りまで常に心に流れているテーマ曲のような感じかなあ。みんなが聴き惚れてくれたらもう目的は達成したようなものですけどね。
そういった感じのカテゴリー「コンセプト」‥あなたにはもうお分りになりました?😅
常識豊か vs 非常識豊か
常識が豊かに成ると常識で満腹になる。満腹ってことは「もう入らない」ってことで、そうすると最早非常識はそこへ入らず‥食わず嫌い。(笑)
非常識で満腹になっても常識に欠ける。それで常識を探し求めるが常識は大概不味い。それで非常識が豊かな人の飢えが収まることはない。
これはどうしたことだろうか‥、あなたはいかが? (;´∀`)
治罰(ちばつ)
小さな鉢に植わった1株の植物‥そこから途轍(とてつ)もなく大きな悦(よろこ)びが家庭園芸にいそしむ私へ齎(もたら)される‥計算。どんな計算をするのも己の勝手‥と一人合点に済ませて、それで辻褄(つじつま)が合わなければ治罰したくなる私がいる。
こういった視点(‥どんな視点じゃい💦)で観ていくカテゴリー「治罰」を作りました。なお、治罰の読みはじばつが一般的かも知れませんが、私の好みでちばつとしました。政治の治(じ)、治療の治(ち)。どちらも魅力的‥ですが私個人の感情を重視。(^^;)
(ここで止める積もりでしたがもう少し続けます。アセアセ😅 )
この園芸の主体(私)は目的を立派にやり遂(と)げたい。政治ならこれを日本の園芸の‥と云うことになるかも知れないし(私はそれも否定しないが)、そんな総体の目的を言うと私の園芸はスムーズに進まなくなる。治罰は駄目‥とか言われたりするからね?
園芸‥私は自然農法が好きですが、私の現在の微力な能力だと治罰農法を受入れざるを得ず、いやいや、美味い果実を横取りする鴉(からす)には石を投げつけたい程だけど、それは抑(おさ)えているのです。だけどダンゴムシやら蛞蝓には容赦しません。
彼らとも傷つけ遭わなくて済む共生がいいなあ、だけどそれは今しばらくの辛抱と思っている。ともあれ、私の力及ばずであればパワーの行使を否定するものではない。なにせ相手は人間以外の生物。人間は私の側(がわ)の存在‥これ、私の思想、私の法。
それにしても初めから途轍(とてつ)もなく大きな悦(よろこ)びだとか、辻褄(つじつま)が合わなければとか好き勝手を述べましたが、途轍も辻褄も道理であれば初めから道理を無視している私と言うべきでしょうが、そこは主体(私)の独裁思考ということで‥。
そんな私のどこに治罰する資格や権利があるだろう‥と謙虚になってみたり。(''◇'')ゞ
幸せの目的は?
このブログは「法」がメインになっておりますが、「なんで幸せの話やねん?」とお受取になる方はいらっしゃると思います。それで私はこのような記事を書いているのですが、今私が語っている法の目的は「そもそも何なのか・誰なのか」と考えなければならないのでないでしょうか?これにはもちろん多種多様な返答が考えられる。
それならどうして多種多様な返答を考えなければならないか?目的が定まらない集団があって、それでその集団はどこへ向かえば良いだろう?その集団に所属する人の数だけの目的があったなら舵(かじ)のない船のようにウロウロするだけ、あるいは「船頭多くして船山に上る」ごとき、とんでもない事態を招いてしまうことにもなる。
だったらどうしたら良い?当然のこと、だれも幸せにならなければ不幸が口を開けて待っている。幸か不幸の二つのどちらか一つを取るしかないのでなかろうか?人々を不幸へ向かわせる法なんか不要でしょう?だったら船を難破(なんぱ)させる訳にいかないのだもの、人々が安全な航路で船旅できるように知恵を出し合わなければ‥
そんなことを思うのです。いかがでしょうか?