文芸論 (note)

どこから耕すべきか?どうやら感性が決めている‥私の場合ですが。

多様性はいかが?

夫唱婦随だの・阿吽(あうん)の呼吸だの言っても結局、本質同床異夢(どうしょういむ)を如何に叶えるかって所に落着くでしょうね。(∩´∀`)∩

それでカテゴリー同床異夢』が出来ました。気楽な内容にする積もりですが熱中すると周りが見えなくなるからお読みの際はご用心を。💦

 

own issue (自身の問題)

切っ掛けは人それぞれであっても本質的なところは変わらないと捉えがちな私のようだ。流行語化してそうなissueを考えていて、こんなふうな書出しになってしまったのは「これは大したイシューでない」と受けとめた私を体現しているに違いない。「これは大したイシューでない」と私が殊更に述べるのには訳があって‥つまり、大したもの(= イシュー)でないものは重く受けとめる迄もないと(反射的に)軽視しがちな現代の軽薄な風潮に反応している私でもある。どうして大したものでなければ大した扱いを出来ないか?
読む人が読めば分ることだから細かいことをクドクド説明しないで置くが、(早い話が)私の用に帰すべく総ての文は綴られています。(*^-^*)

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私の用own issue.(自身の問題)と捉えるのは誤まりでなく、何れにしても(自分に)役立たないモノに価値はあるまい。私はここで何を述べたいのかと言うと‥自分自身の成長が見られなければ記述したって意味ないでしょう⁉私には自身の成長こそがナニより大事。もちろん、状況は人毎に異なりますからあなたにはあなたの用が設定されて、あの人にはあの人の用が設定される。自分自身の用がない人はゐないけれど、自分自身よりも他者の用を優先してらっしゃる有難い存在もある。他者の用の優先を「own issue」とする有難い代表例としては母性愛悲母の愛慈父の愛なんてのが考えられるけど、祖国のために死んだ兵士なんてのは痛ましくてやるせないですね。

性善 vs 性悪

人間性(人間の本性)はかと姦(かしま)しいほどの知的好奇心が旺盛な人は昔に限らず現代にも大勢いらっしゃるようです。議論・口論を楽しむのが悪いとは言わないけれど、悪く楽しむのは如何なものか?そもそも性善・性悪ではどちらが善どちらが悪だろうか?そんなことで考えていきたい。

それにしても私たちにとって何より大事なことは何だろうか?美味しいとこ取りを重視してる人は大勢いるようで、だけど確かに美味しいとこを手に入れたらウハウハになるかも知れない。それでかも知れないけど兄弟で奪い合いに精出してる家庭もあるからね。逞しく育てよお~ッてか、笑 ( `ー´)ノ

(ともあれ、個人的な感覚は此処では一旦置いておいて)ふるさと納税の件が思い浮んだので考えたい。国会にしろ、役人にしろ、地方自治体にしろ、これはどういう感覚が善いだろうか?だから役所の性格は性善が善いか?性悪が善いか?それとも役所に善いも悪いもないか?あなたはどう思うか?

今騒がれている泉佐野で検索したら橋下徹氏が出てきた。それを引用したい。人にはそれぞれの持論があろうから事実を簡単に述べておくと、橋下徹氏の発言として東スポweb2019年8月5日の記事に「ルールは全て自治体任せにして景気向上税制として真正面から認めるべき」とあるようだ。

肝心の泉佐野市市長は政府に激しく反発。全市町村の平均は3億円弱、人口比なら同市は4億800万円。同市は「総務省の要請に従わず、地場産品でない返礼品やネット通販大手アマゾンのギフト券を贈るなどして多額の寄付を集め、平成30年度の寄付額は約497億円を見込む」とあって突出した金額だ。

ついでに‥松井一郎大阪府知事(2019年2月6日時点)の認識は泉佐野市の行為を合法と発言しておられる。(YAHOOニュース thePAGE)「国と対峙してでも泉佐野市民のために財源確保しよう」とある。私も違法ではあるまいと思っていたが、そのうえで役所・自治体としての感覚はどうあるべきなのか?

松井一郎氏の言を借りれば、泉佐野市民のために国庫の金を分捕ってきた。飢えている子供のために親が両手いっぱいの食品を持って帰ったとしたら‥その親の気持ちは分るが、早い者勝ちでその食料品を奪いあって善いものだろうか?独り占めして善いだろうか?もしか善意の食料品でなかったか?

一人でも多くの人たちと分かち合えない程に泉佐野市は悲惨な状況だったのか?全部独り占めしても違法でないのは事実だろうけど、善意を分かち合えない日本でホントに善いのだろうか?「ルールは全て自治体任せにして景気向上税制として真正面から認めるべき」という橋下氏の理想論も分る。

だけど、現実には己の市民だけが食えれば好いという市町村が増えるなら、それでは橋下徹氏の温かな想いから離れてしまうのでなかろうか?市町村などの自治体の魂は性善が善いか?性悪で善いのか?己の家族のために他人の子が飢えていても気にしない民衆が増えても一向に構わないだろうか?

それぞれの集団毎に固まれば他集団は食い物を奪い合う敵となるかも知れない。日本中の弱い民がなけなしのお金を出し合って助け合っているときに、手本を示すべき自治体(の長たち)が利己で動いて善いだろうか?維新の会に人々が期待するモノは奪いとる力(弱肉強食の覇者)ではないと思うが‥。

訳の分らない変な政党が現れている昨今、力ある政党には弱者の側に立って真剣に取組んでほしい。そんなことが私には思われるのです。(´・ω・`)

不気味の谷

2019年7月6日放映のnhkこころの時代~宗教・人生~をご覧になった方は多いと思うが、番組はロボコン仕掛人森政弘東工大名誉教授にインド哲学丸井浩東大名誉教授が聞き手(MC役)となって語り合う趣向だった。それで私の関心を惹いたのが森教授の造語でこの記事の表題「不気味の谷」だったが、私的には以前から感じていた想いと殆んど変らない内容で、但し全然別モノだと否定されでもしたらそれを打破るまでの資料を用意できる訳ではありません。

 

 

 

書きかけ記事で、この後に続けます

機を見るに敏 ⓓ

あなたひとですか? ひとのこころ、ありますか? あなたなら、このフレーズにどう反応しますか?機を見るに敏日本人たちであれば‥「自分は人であると思われたい」「自分には人の心があると思われたい」‥となるだろう。大概の人は周りの動向を見よう窺がおうとするだろう、そのうえで己の言動を周りに合わそうとすることになる。

 

このような振舞いは西欧では笑いものかも知れないが、なあに、日本の文化なら何も臆することはない。日本では誰でもそうやって動向を決めて発言している訳で、たまに鈍くさいヤツが周囲に歩調を合わせられず、物笑いになっているだけだ。鈍くさいヤツの間抜けヅラを見ろ、何をやらしても鈍くさくて見っともなくて救いようがないぜ。

 

それにしても日本で鈍くさいヤツに生きる資格は要らん。機を見るに敏でないヤツは平均以下、レベル以下。レベル以下でも俺の役に立つならこき使ってやるが、俺の役に立たないヤツはロクデナシのクズ野郎‥と、こんなところ。これが私の反応かな。これでお分かりと思うが、私はロクデナシのクズ野郎の資格が十分にあるだろう? 笑

 

言っておくが、ロクデナシのクズ野郎にも2とおりある。私は反社会的行為に与(くみ)しないことにしている。私とは逆に反社会的行為にはしるヤツもいる。正義感が強ければ強いほど反社会的な生き方に共感しやすい社会があって、そこでは謂わばロビンフッド症候群に憧れやすい。私にもロビンフッドに憧れた頃はあったなあ。笑 ( ´∀` )

 

立上がり方を違えればそれが正しい向きであっても大勢が傷つくに違いない。目的は誰かを攻撃することでない。全うなつもりで害悪を為す人の多さよ。誰かが立上がらなければ誰かが傷つくかもしれない。そういった ジレンマは多々あっても、目覚めのシグナルを鳴らすしか知らない私。後悔先に立たずであれば、自己満足で今は善し哉🌠

機を見るに敏 Ⓒ

(記事をnoteで書いてたら、私に原因は分らないけど、途中で削除・削除状態になって‥それで此処に綴ることにします。hatenaも今後気をつけてほしい。( ´∀` )

 

落ちこぼれたい人はゐない。独り立ちしようと生れてきた人間・人間群なんだ。そう思わないか?この人間群をニーチェ畜群と表現した記述をwikipediaに観たように思うが、そうであればニーチェ信じるベキ(信仰)を知らなかったことになる。信じられる確かな思想(≒宗教)を持たない存在がどうして人間に期待するだろうか?結局、ニーチェには人間を信じられた訳がない。況して人間群を信じられないニーチェだ。

 

ここから朝ドラの時間になって、それで観て来ました。nhkドラマ「なつぞら」。今朝のドラマの展開に畜群の否定を観た私。役に取組む雪次郎の姿勢に畜群への憧れを見た蘭子。役者としての雪次郎に見切りをつけた蘭子かも知れず、それは今後の展開。ともあれ雪次郎に引きずられたら蘭子もともに深淵へドボンとなるしかない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ‥このフレーズです。

 

深淵を覗き見るニーチェが色眼鏡を掛けてたら?悪魔・邪悪の色眼鏡で見るしかなかった二―チェに対して深淵は甘い音色で歌いかけてきたのだろう。おそらくニーチェに私欲は詰まらなく想われて、それならその饅頭は要りませんって思うだろう。欲しがらない人間にどんな魅力的な囁きも意味はない。ニーチェはそうでも、彼の周りはその毒饅頭に群がる人・人・人‥。それで人間(群)に幻滅したニーチェと導かれる。

 

機を見るに敏な者は、この程度の私の記事にも目を光らせることになる。奪いとろうか削除してやろうか‥計算もする。勘定が合うと計算すれば己が功績にしたい、詰まらないと思えば見て見ない振り。私にも営業の経験はあるから情報に目を光らせていたい心情はよく分るのです。人の商いを横取りして得意がってる卑しい連中をいっぱい見てきた。その結果、ニーチェ他者に失望し、私はの存在に誇りを持った。このです。

 

ニーチェには他者()を見る目(即ち思想・宗教)しかなくて、私には私()を見る目があった。外側に解決策を探し求めて旅する道のり。内側に解決策を探し求めて旅する道のり。あなたはどうか知りませんが、私は内側の道がいとする。即ち内道の私。外の道には他者の姿が見える。他者の心が全うに見える筈もなく、精々が真っ当に努力してみるしかない。だからニーチェの言い分も当るも八卦で半分は当たる計算。笑

 

ドラマの雪次郎の感性は外の世界を映しだす。雪次郎は若いのだもの、外の世界で揉まれるのも雪次郎のためにはいだろうな。(自覚しておくべきは)外を見る眼鏡しか持たなければ己を振りみることは不可能です。無欲に生れついたなら、それが(ニーチェに幸いした‥ように?)雪次郎に幸いするが、旅の始まり‥生きる目的でなく栄光目的・勝利目的で旅立った雪次郎でなかったっけ?言っておくけど、が悪いのではないよ。番組冒頭で罰が当たった辺見庸氏は述べたが、これも当るも八卦で半分は合ってる。

機を見るに敏 ⓑhttps://blog.hatena.ne.jp/met-hod/fact-or.hatenablog.jp/edit?entry=26006613376963441#preview

辺見庸氏は、産れ育った環境が「在る」と仰る。その意味は?恵まれた環境と恵まれない環境が「在る」となる。結局、自分は恵まれた環境に[在る」と思う人と、自分は恵まれない環境に「在る」と思う人の2種類。もちろん、辺見氏は恵まれた側に「在って」、自分(辺見庸)が恵まれた産まれ育ちなのは仕方ないことなんだと弱い人たちに嘯(うそぶ)いてらっしゃる。

その氏の姿勢からは社会的弱者への心遣いが感じられない私。社会的弱者は世を拗ねる訳にいくまい。社会的強者は日頃の想いを代弁してくれたと辺見氏を褒めそやしたいだろう。哲学学を楽しんでらっしゃる方々は己が意を得たりと愉快がるだろう。只、真っ当な哲学の徒だけはその無慈悲な姿勢は駄目とする。世界には四者がゐて真っ当な反応は真っ当な哲学の徒からのみ。

こう導かれてくる結果、辺見庸氏を哲学者と見做さない私の根拠をあなたにもご理解いただけただろうか? 四者がゐて辺見庸氏は社会的弱者でないのは明らか。そうすると氏は哲学学を楽しむ一人、あるいは社会的強者の一人と私は結論づけることになる。さて、名実ともに社会的強者でありたい人を日本社会で多く見かけるが、最強を目指す辺見氏だと私は思っている。
 
強者の条件を考えてみる。体力知力には素質が深く関わるが、育つ環境の及ぼす影響も見逃せない。戦争末期に産れた辺見氏に栄養失調の経験はないだろう‥と言うのは母乳もミルクも知らずに育ったなら筋肉も骨も内臓も充実せず、体力が続かなくて何かと他者に後れを取る。世界を股に掛けた活躍をすべき職業や肉体労働は制限され、弾かれることになりそうです。
 
特別に裕福な環境とまでは言わないが、食うや食わずの乳幼児期を過ごした人たちとは最初のスタート時点から異なる。体力に知力が伴うとは言わないが、体力がなければ知力をアップする努力に陰りが出るのを否めず、だがこれは努力で補える。何にせよ辺見氏の知力はドナタもご存じのとおりで、申し分ないほどに引き出されて見える。いやいや、羨ましがっても仕方ない。
 
体力・知力が充実した好青年が社会的強者(=出世街道)を目標に船出する。世界は氏の眼前に洋々と広がっていた。そうであれば辺見氏は恵まれたスタートを切ったという事になる。そんなエリート社員が人生につまづいて転がり落ちてくる話はよく聞くが、人生は前向きに取組めば何てことないと捉えている現在の辺見氏の心境だろうなあ‥私の感性には氏がそのように映る。
 
ここで社会的弱者の多くはどんなだろう‥考えておきたい。今の辺見氏の位置を高嶺の花と思いたがっている人たちのことです。辺見氏には現状はどん底かも知れないが、体力なく学ぶ機会も得られずに這いあがる手段も見えない人たちは多い。そういう弱者の居場所とも言えない暗闇も「在る」のだろう。暗闇を照らすには強者が身に着けた灯かりが役に立つだろうなあ‥。
 
いっぽう、弱肉強食の世界では機を見るに敏なエリート戦闘士が強い子分たちを引き連れてどんどん先へ進んでいくだろう。強者の前には二つの道がある。今私たちはその交差路にいて、さて、機を見るに敏なる辺見庸氏はどんな号令を掛けてくれるのか‥理解しにくい難解な号令でなく、誰でも聞き取りやすい号令が落ちこぼれたくない私のためにも嬉しく思えるのです。