幸せの目的は?
このブログは「法」がメインになっておりますが、「なんで幸せの話やねん?」とお受取になる方はいらっしゃると思います。それで私はこのような記事を書いているのですが、今私が語っている法の目的は「そもそも何なのか・誰なのか」と考えなければならないのでないでしょうか?これにはもちろん多種多様な返答が考えられる。
それならどうして多種多様な返答を考えなければならないか?目的が定まらない集団があって、それでその集団はどこへ向かえば良いだろう?その集団に所属する人の数だけの目的があったなら舵(かじ)のない船のようにウロウロするだけ、あるいは「船頭多くして船山に上る」ごとき、とんでもない事態を招いてしまうことにもなる。
だったらどうしたら良い?当然のこと、だれも幸せにならなければ不幸が口を開けて待っている。幸か不幸の二つのどちらか一つを取るしかないのでなかろうか?人々を不幸へ向かわせる法なんか不要でしょう?だったら船を難破(なんぱ)させる訳にいかないのだもの、人々が安全な航路で船旅できるように知恵を出し合わなければ‥
そんなことを思うのです。いかがでしょうか?