文芸論 (note)

どこから耕すべきか?どうやら感性が決めている‥私の場合ですが。

機を見るに敏 Ⓒ

(記事をnoteで書いてたら、私に原因は分らないけど、途中で削除・削除状態になって‥それで此処に綴ることにします。hatenaも今後気をつけてほしい。( ´∀` )

 

落ちこぼれたい人はゐない。独り立ちしようと生れてきた人間・人間群なんだ。そう思わないか?この人間群をニーチェ畜群と表現した記述をwikipediaに観たように思うが、そうであればニーチェ信じるベキ(信仰)を知らなかったことになる。信じられる確かな思想(≒宗教)を持たない存在がどうして人間に期待するだろうか?結局、ニーチェには人間を信じられた訳がない。況して人間群を信じられないニーチェだ。

 

ここから朝ドラの時間になって、それで観て来ました。nhkドラマ「なつぞら」。今朝のドラマの展開に畜群の否定を観た私。役に取組む雪次郎の姿勢に畜群への憧れを見た蘭子。役者としての雪次郎に見切りをつけた蘭子かも知れず、それは今後の展開。ともあれ雪次郎に引きずられたら蘭子もともに深淵へドボンとなるしかない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ‥このフレーズです。

 

深淵を覗き見るニーチェが色眼鏡を掛けてたら?悪魔・邪悪の色眼鏡で見るしかなかった二―チェに対して深淵は甘い音色で歌いかけてきたのだろう。おそらくニーチェに私欲は詰まらなく想われて、それならその饅頭は要りませんって思うだろう。欲しがらない人間にどんな魅力的な囁きも意味はない。ニーチェはそうでも、彼の周りはその毒饅頭に群がる人・人・人‥。それで人間(群)に幻滅したニーチェと導かれる。

 

機を見るに敏な者は、この程度の私の記事にも目を光らせることになる。奪いとろうか削除してやろうか‥計算もする。勘定が合うと計算すれば己が功績にしたい、詰まらないと思えば見て見ない振り。私にも営業の経験はあるから情報に目を光らせていたい心情はよく分るのです。人の商いを横取りして得意がってる卑しい連中をいっぱい見てきた。その結果、ニーチェ他者に失望し、私はの存在に誇りを持った。このです。

 

ニーチェには他者()を見る目(即ち思想・宗教)しかなくて、私には私()を見る目があった。外側に解決策を探し求めて旅する道のり。内側に解決策を探し求めて旅する道のり。あなたはどうか知りませんが、私は内側の道がいとする。即ち内道の私。外の道には他者の姿が見える。他者の心が全うに見える筈もなく、精々が真っ当に努力してみるしかない。だからニーチェの言い分も当るも八卦で半分は当たる計算。笑

 

ドラマの雪次郎の感性は外の世界を映しだす。雪次郎は若いのだもの、外の世界で揉まれるのも雪次郎のためにはいだろうな。(自覚しておくべきは)外を見る眼鏡しか持たなければ己を振りみることは不可能です。無欲に生れついたなら、それが(ニーチェに幸いした‥ように?)雪次郎に幸いするが、旅の始まり‥生きる目的でなく栄光目的・勝利目的で旅立った雪次郎でなかったっけ?言っておくけど、が悪いのではないよ。番組冒頭で罰が当たった辺見庸氏は述べたが、これも当るも八卦で半分は合ってる。